昭和44年05月21日 朝の御理解



 御理解 第78節
 「神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄人筋となって、 これが神の機感かのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたすことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。」

 人間と健康とそれに身代までが揃うてしかもそれが三代続いたらと、ここでだから一番大事な事は、先ず人間が出来なければならないという事です。昨日の御理解のまぁ延長のような感じですね。神の気感にかのうという事。神様の気心に叶うという事です。神様の気心にかのうた氏子にならして、それには先ず何と言うても人間が出来なければならないという事です。そで私はこのうこの七十八節は、いつもいろいろに頂くのですけれども。神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続きとこう仰っておられる。
 だからこのう人間が出来るという事ね。教えに取り組ましてもらう。そこから人間が昨日の御理解で申しますと、本当に私は昨日の御理解を、又皆さんが後で頂かれるのをここから聞かして頂いて、ようまぁあんな事が言えたものだと、自分で不思議なくらいに思うんですよね。私の事を神々しい迄にというような事を使いいうとるでしょう。まぁありゃ私もそれを平気でいうておる。皆さんもこうそれを自然に抵抗なしにお聞きになったように思うのですよ。
 それで改めて別に頂いてみてから、それを私は感ずるですけれどもね。本当にやはり和賀心が、神に向うていくのですから、本当言うたらやはり段々神々しい迄に変わってこなければ駄目ですよね。ですからあのうそこんところがですね、変わっていく事と同時に、いよいよ神の大恩を分かって来る。一通りじゃいけんのですよね。一通りの分かりようではいけんのです。まぁ一通りと言うのはね、本当に神様のおかげを頂かねば立ち行かんのだという事は。
 一通り分かった訳ですよね。けれども一通りの分かりようじゃいけん。神の大恩が分かるという事。いよいよ神恩の広大無辺な御神恩の中に、御神徳の中に生かされてあるという、喜びを分からしてもらうから確かになる程、無事達者で子孫も続き身代も出来、一年まさり代まさりのおかげを受ける事が出来るとい事。そこでお互いの信心を様々にまぁ銘々検討してみる訳でございますがね。
 昨夜菊栄会で、皆さん十二時ちょっと過ぎまでお話し合いをしておられました。それで皆さんを送り出します時に、ある会員の方に、「明日は福岡支部の御大祭だから、皆んなおかげ頂くだろう。」と私が申しましたら、「はいおかげ頂こうと思うとります」とこう言う。私のその信心性格と言うか、何かこう何というでしょうかね。まだるっこい感じがするんですよね私。当然お参りさせて頂かなならんじゃないかあんた達の。いわばここでの信心の立場から言うても。
 「はいお参りさせて頂きます」と何故言わんのだろうかと。「お参りさせて頂きたいと思うとります」とこう言う。けれどもよく考えますとですね。それはどちらがよいとも言えんのですよね。それは「参らせて頂こうと思います」と言う方のが、いわば思慮分別とでも申しましょうか。その思いが深いというふうにも思えるんです。「はいお参りしようと思いよりますばってん、生身を持っておる事ですから、どういう突発的な事情が起きて来るやら分からんから、お参りは出来んかも分かん。
 お参りは出来んからも分からんから、お参りさせて頂こうと思いよります」と言う方が、やはり謙虚な表現のように思いますよね。あれが私なら「はぁお参りさせて頂きます」とこう言うに違いがない。皆さんならどちらを取られるでしょうか。後で皆さんが帰られた後で高橋さんが残っておられましたから。「今日こういうふうに誰ゝさんが言うたが、あんたなら高橋さんどげん言うたか」と尋ねたんです。どうでしょうか皆さんなら。明日福岡の大祭です。
 「明日お参りが出来るだろ」「はぁお参りさせて頂こうと思いよります。」とこう言う。そこんにきにそのう、それぞれの信心個性というものがやっぱ有りますですね。やはり「鳴かぬなら殺してしまえほととぎす」という、生き方もありゃ。「鳴かぬなら鳴かしてみしょうほととぎす」という生き方もあるし。「鳴かぬなら鳴く迄待とう」というやはり考え方もあるのですからね。けれどもこの合楽の場合、どういうふうな私は頂き方をしたのが、今の合楽の信心にぴったりきておるかというと。
 やはり私の考えに率直にですね、ぴったと合うとるというのが、本当じゃないでしょうかね。ここでは。まぁそこでなら今日の御理解から、その事をまぁ検討してみるとですね。なる程人間生身を持っておる事であるから、いつどういう事が起こらんとも限らないと。お参りしようと思うとって、お参りできんかもしれない。そこでお参りさせて頂こうと思いよりますけれどもと、いう事になるのですけれども。
 例えば「神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさりり代まさりのおかげを受ける事が出来る」とこう。神の大恩を知ればとこう仰る。その神の大恩を知る為には、どういうところにもとずかねばならぬかと。何と言うてもね結局私が参るとか、私がするとかという考えではいけんのです。どこまでもさせて頂くというのでならなければね。そこで障子一重がまゝならぬ人の身であると、教えられるその事がです、本当に実感出来る。
 障子一重がまゝならぬ人の身であるから、障子一重がまゝならぬ人の身であるから、明日の事はどうなるとも言えんのである。そこんところが分からして頂いてです。お参りさせて頂こうと思いよりますけれども、明日の事は分かりません。というのならよいけれども、自分が参ろうと思うておるから、自分が参ろうと思うておるから、どうなるのやら分かんというのであったら。これはただ聞いたところでは、謙虚な表現のようであるけれども。これではおかげの受けられないいき方です。
 同じ明日は参ろうと思いよりますけれども。障子一重がまゝならぬ人の身であるがゆえにですね。それでお参りしようと思うとっても、どうい事になるか分かんというところに出ておるならば、これは立派です。そこで私は思うんです。その事がです願われる事がです。自分を抜きにしたもの。いうならこと神様ごと。こと神様が喜んで下さる事であるとするならばです。これは私は絶対の信を持ってです、障子一重がまゝならぬ人の身ではあるけれどもです、この事だけはお許しを頂かねばという信があって。
 私はそれに対して答えるならばね、お参りさせて頂きますとい事になってくるんじゃなかろうかと思うのです。そこのにきにですね。同じようであっても大変違って来るんですよ根本的に。参ると言うとってお参りが出来んかも知れん。そうするとすらごとになるから、心じゃ参ろうと思いよるけれども、はっきりした事は答えられないと。なる程謙虚な表現です。○○さんらしいお答えだとこう思うのです。高橋さんあんたならどう思うかと、私が高橋さんに問うところはです。
 そこんところをあんたはどう思うかと、いう意味なんですよね。私ならお参りさせて頂きますと、どうでもお参りさせて頂きますというふうに言うだろう。それはね自分が参ろうと思うておるという事はです、これはもうこと神様ごと神様が喜んで下さること。間違いのない事としてです、どうでもお縋りをしておるから、このお縋りなら神様は聞いて下さると、確信するるからお参りさせて頂きますと断言出来るのである。これが全てのおかげにつながるのですよこういう思い方が。
 その信がその確信が神様の機感にかなう。神様の心にかなう事であるならばですね、私は、そこに断言出来れる私にならなければ本当は、合楽的な信心を身につけていっておるとは言えないと私は思うですね。そこで私は今日は私も実を言うたら、もう非常に今日は体がどうか、自分で変なぐらいにおかしいです。お話しをしとってもですね。いつお話しが、ピタッと止まるやら分からんというような感じがする。もう今朝から私お水どれだけ頂きよるか分からん位に頂きよるのですけれどもね。
 けれどもそのひとつの確信がですね。どうでも今日の福岡の大祭の祭主を仕えさしてもらう私は、どうでもその事だけはお許し頂かなきゃならんという確信がね。今日はやっぱり当たり前の通りに、きちっと三時半に出らして頂いて、御祈念をさせて頂いて、そして御理解を皆さんにもこうして聞いて頂いて、まぁいつもと変わらんおかげをこうして頂いておる訳です。だからこの延長が福岡の大祭に迄続いていく訳ですが。続くんだとこう確信する。どうも体の調子が悪かけんどうかわからん私は。
 と思いよりますけどもでは、本当に分からん事になって来るんじゃないかと、いうふうに思うんですよ。何ちゅうか本当にですね、今日は震いのこうごたる感じですよお話しが。本当にそれは生身を持っているから、どういう事か分からんのですけれどもです、ことそれが神様の事であり、神様の機感にかなう事であり、神様がお喜び頂ける事だと、その事を信じるところからです、どうでもというものが私は生まてくる。そこには断言的なものお参りさせて頂きますと言えれる信心。
 そこから神の大恩を分からしてもらうという事はですね、そういう確信的ないわゆる信念と言うか、思いがですね確信しておるとおりにです、言うならばおかげが受けられるでしょう。そこに次の体験が生まれるでしょう。確信がおかげにつながるでしょう。だから私は神の大恩が分かるだと思うのです。だから神の大恩が分かればです、無事達者子孫も続き身代もでき、一年まさりしかも代まさり、いうならば私共が願いに願っておる。願ってやまない事の成就していく事の為には、ここのところが分からないかん。
 神の大恩が分からにゃいかん。それには先ず何と言うても、私共が障子一重がまゝならぬ人の身であるという、自覚のところからこれだけの事は、まぁだ自分がでける。でけるからでけるとそれを確信、その出来ると断言するのは、これはやはりまぁある場合では慢心かも知れません。けれどもことそれが神様の事。こと神様が喜んで頂く事だから、許して頂く事間違いないと確信する。だからお参りさせて頂きますと、断言出来るような信心。そこからですね。その確信がです。
 いわゆる願い通り思い通りにお参りが出来るという体験がそこに生まれて来る。だからこそそこに神の大恩神様の働きというものを、いよいよ信ずる事が出来るのですよね。神の大恩を知ればとおしゃる。今日私はそのところを強調して皆さんに聞いて頂いた訳ですけれども。どうでも一年まさり代まさりのおかげを、受ける事が出来るぞと仰る。その出来るぞと仰っておられるそのおかげを頂く為に、先ず神の大恩を知る。又神様の大恩を知る為にいよいよ私は、神様の間違いなさというものを身を以って体験していく。
 それにはこと神様ごと、ことこれなら神様が喜んで下さる事に間違いはないという事です、一念を燃やすという信心。そこから神様の働きを、本当にいやという程感じさせてもらう分からしてもらう。そこからいよいよ神の大恩が分かる。ここにはもう神の大恩を知ればと仰るのですから。只私は先程から申します、通り一辺の神の大恩なら誰でも分かるのですよ。神様のおかげを頂かねば立ち行かないという事は、段々話を聞きよれば、誰でも分かるのですが。
 通り一辺に分かったんじゃなくて、自分の確信に基づいた神様。そこからの神様の大恩を感知すると言うかね、体得していくと言うか。でいかならなければあのう一年まさり、代まさりに繋がる様なおかげにならん。もちろんその一番大事な事は、「身代と人間と達者とがそろうて」と仰る。先ず何と言うても人間が出来るという事。先ず言うなら人間が今のまゝであってはならないね。人間が変わっていく事。先ず私が改まっていく事。私にいよいよ磨きをかけていく事でございますけれども。
 同時に神様の大恩を分かれせて頂く為の、言うならなんと申しましょうかね、確信の出来れる確信運動とでも申しましょうか。確信運動じゃないですねえ。そのう確信の出来る為の姿勢とでも申しましょうね。例えばなら「今日は福岡の大祭ですから、お参り出来ますか」と、「はいお参りさせて頂きます」と「さぁ参らして頂こうとは思いよりますばってん。」本当に思いよるならですね。
 それが神、そのお参りその事が神様が喜んで下さる事と確信するならですね「はいお参りさせて頂きます」と断言出来れる信心。そういう様な事はいつも有る訳ですよ。だからその事が成就して初めて神様の働きを又知る事が出来るのですから。いよいよ神様を確信出来る、いわゆる神様の働きと言うか、そこから神様の大恩でなからなければ、一年まさり代まさりに繋がる様なおかげにはなって来ないと思うですよね。
   どうぞ。